フグを食らったら、死ぬ前に言い残せ 昔の記憶なので、正確か否かはわかりませんが、金八先生はこのようなことを言ってました。 フグという魚を食べて、人が死んだ。それを見て、「フグという魚は食べると死ぬ」ということがわかった。 フグを食べても死なない人がいた。それを見て、「フグという魚は食べると死ぬ部分と、そうでない部分がある」ことがわかった。 フグをあちこち切り離して、5人で食べた。そのうち1人が死んだ。その者が食べた場所は、フグの肝だった。 フグは、肝の部分に食べると死ぬものが含まれていることがわかった。 つまり、現在のフグを食べるという文化は、何人かの命がけの実験によって成り立っている。その命がけの実験を公表したからこそ、今、私たちは安全にフグを食べることができるのである。 だからフグという危ない魚でも、いちいちどの部分が危ないかなどという実験をしなくても、どこを食べれば良いかがわかるのです。 教育とは、フグを食らう文化 私は教員免許も無ければ、学者でもありません。しかし、あえて教育というものを語らせていただきます。 学問・研究という分野も同じで、どこかで誰かが行った研究を論文にしたり、発表したり、講演したりすることで、その研究に価値があるものならば、後世に語り継がれ、その研究をもとに更なる研究がなされ、その更なる研究をもとに更なる研究を生む…という繰り返しです。 教育だってそうです。明治時代は、小学校もろくに行かせてもらえないなんて話があって、それではいかんということで戦後は中学や高校へは9割以上の児童が行けるようになった。校内暴力がひどければ対策を立て、いじめがひどいといえば議論が起こり…という繰り返しだったでしょう。 大学も、偏差値という基準だけで入学者を決めるのはおかしいということで、何度となく改革がなされました。 さて、これらの度重なる教育改革ですが、誰が行ったものでしょうか? 文部省ですか?学校の校長先生ですか?大学の入試担当教授ですか? いえ、違います。校内暴力を起こした彼らであり、いじめで自殺した子どもたちであり、大学へ入れなくて落ち込んだ彼らの、「なんとかしてくれ!」っていう、小さな声なんです。 その小さな声を聞いて、親やまじめな教師が拡声器となって声を出し、世論を動かし、改革を促して現在に至ったのです。 もちろん、これらの改革が全て良いとは思いません。改悪だってあったでしょう。でも、私たちが利用している大学や学校教育というものの改革の歴史には、こうしたフグを食らって、命がけで声を出した人たちがいるのです。 私たちがやるべきこと そこで、私たちがやるべきことです。 1.おかしいこと、理不尽なことには、声を出すこと 2.困っている人がいたら助けてあげること 3.合法的な活動をする改革者の足を引っ張らないこと これらを行うことで、今すぐかどうかはともかく、少しずつは改革されていきます。 私が以前、出入りしていたある慶友会では、レポート返却遅延に関し、けしからんとか問題であるといった、私に共感するような意見を出しておきながら、それ以上の行動を起こさない人や、その意見に同調するだけで、結局何もしないとか、私が訴訟を起こしたとたんに手のひらを返す人がほとんどでした。 フグを食らって、何も言わずに死ぬだけでなく、フグを食らって苦しんでいる人を見て見ぬふりをするという人が、いかに多いかということが、よく分かったのです。それどころか、苦しんでいる人を見て、蹴飛ばすようなことをする人も多かったのです。 しかし、私は彼らに自身を持って言えます。 「私はフグを食らってのた打ち回ったが、言うべきことは言ったし、フグの毒を消す術を知ることができた。だから、これからは、困っている人がいたら助けてやってくれ。」 …彼らは私のことを変人扱いしてるのようだけど、すっごく理性的で合理的で合法的な行動だったと思うんだけど(^_^;)。 (オマケ)講演してきました 先日、都内のある教育関連団体(NPO)に呼ばれて、こうした講演を行ってきました。多くの方の共感を得ることができました。また、春に来て欲しいというオファーもあり、面白くなってきました。講演って、すごく楽しいですね。 |
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